これからの正義の話をしよう

本書は去年大変に話題になった、ハーバード大学で哲学を教えている人が著したものですよ。日本にも来たみたいね。


10の章からなっていて、初めから読んでいくことで結論に達する形になっています。個々の章について感想を述べていくと時間もかかるしやめときましょう。あと、私の力量的にもそれは無理だべさ。


ということで、

1.ハリケーン襲来後の便乗値上げの話
2.マイケル・ジョーダンの所得に高率の税を課す話
3.物語る存在としての個人

に焦点を絞って書いていきましょう。


まず、1について。これは、ハリケーンに襲われて壊滅的な被害を受けたフロリダで便乗値上げが起こった、という話。引用します。

・オーランドのあるガソリンスタンドでは、一袋二ドルの氷が一〇ドルで売られていた
・家の屋根から二本の木を取り除くだけで、業者はなんと二万三〇〇〇ドルを要求した。
・小型の家庭用発電機を通常は二五〇ドルで売っている店が、ここぞとばかりに二〇〇〇ドルの値札をつけていた。

当然、フロリダ州の住民は怒った。驚いたことに、フロリダ州には便乗値上げを禁止する法律があるらしく(日本にもあるのかな?聞いたことないけど)、州の司法長官がそいつを執行したらしい。


ところが、一部の経済学者はその便乗値上げ禁止法や住民が怒るのはおかしいと論じていたと。自由主義者たちはこう考える。オーランドで氷が高く売れるってんなら、製氷会社は氷を増産するだろう。市場の供給が増えるから、価格は下がるはずだ。早い話が、価格ってのは需給のバランスで決まるもんなんだから、「不当な価格」もなければ「公正な価格」もないということですなあ。


この章を読んで、私の頭に浮かんだのは、「阪神大震災の時に、便乗値上げはあったのかいな?」だった。ハリケーンと地震は自然現象としては別物だが、被害の内容は似ている。家や建物が壊れる。物資が不足する。ライフラインが寸断される。などなど。


ネットで調べると、どうやら一部では便乗値上げはあったようだが、大きな問題になるほどではなかったようだ。ダイエーは中内功がいち早く生活物資を定価で販売することを決めて対応したということです(これが他の便乗値上げを防止したという側面もあるのかも)。


日本には、災害に乗じて商売をするのは人倫にもとると考えた人が多かったわけですが、アメリカにはそういう商売をして何も恥じることはないというリバタリアン(自由が大好きな人たち)も一定数いた。でだ。この差は何?と思いませんか?


お金を稼ぐこと、経済的な成功を収めることに対しての考え方の違いみたいなのはあるのかもしれない。アメリカでは経済的な成功を収めた人は、そうでない人々に多くの羨望といくばくかの妬みを、日本では多くの妬みといくばくかの羨望を抱かれます。日本人は、金持ちは強欲、守銭奴というネガティブなイメージを持ち、アメリカは金持ちは成功した証というポジティブなイメージを持つ。


成功することを重んじる国なら、儲けられるときに儲けて何が悪い、ということになってもおかしくはないのかもしれません。あとはやっぱり、自由が好きってことですかねえ。


2について。これは、リバタリアンという人たちについての話だともいえるかも。リバタリアンについての説明を本書から引用します。

「リバタリアンは、経済効率の名においてではなく人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。リバタリアンの中心的主張は、どの人間も自由への基本的権利ー他人が同じことをする権利を主張するかぎり、みずからが所有するものを使って、みずからが望むいかなることも行なうことが許される権利ーを有すると言う。」

「権利についてのリバタリアンの理論が正しければ、近代国家の活動の多くは不法であり、自由を侵害するものだ。最小国家ー契約を履行させ、私有財産を盗みから守り、平和を維持する国家ーだけがリバタリアンの権利の理論と両立する。」

注目すべきは、リバタリアンは富の再分配すら認めてないという点。ジョーダンの所得に高率の税を課すのに反対するどころか、そもそも所得税を課すこと自体ダメってんだから凄いねえ。


リバタリアンは、「おれはおれのものなんだから、おれの稼いだ金に手ぇ出すんじゃねえええええ!」と言っているのです。彼らにとっては、稼いだ金の30%に課税されるのは、自分の時間の30%を国家のための強制労働に取られるのと同じなんです。


日本では、高額所得者への高率課税については、累進の傾斜が大きくなれば「やる気を削ぐからダメ」ということはまま言われることだけど、「自由を侵害されるからダメ」ってのは聞かないよね。


かつてよりは希薄になっているかもしれないが、私たちは個人を、無からいきなりポンと現れた存在ではないと感じている。自分は自分だけのものだ、という自己所有の考えは、自らを歴史の中に取り込んで考える傾向の強い日本人にはあんまり馴染まないでしょう。


3は、歴史的不正に対する公式謝罪を巡って繰り広げられた議論についての話から始まる。ナチスによるホロコースト、日本軍によるいわゆる「慰安婦」の連行問題(私はこれには与しないけど)、オーストラリアの先住民に対する政策、アメリカの奴隷制などが挙げられてます。


上に挙げた問題は、公式に謝罪されたものもあればそうでないものもある。著者は、歴史的不正に対して謝罪をすることを良しとしない人々の次のような主張について考察する。

「これは、現存する世代は前の世代が犯した不正について謝罪する立場にはないし、現実問題として謝罪できないとする主張だ。」

つまり、「奴隷を所有していたのは私じゃない。私がやってないことについてどうやって謝ればいいのか?」ってこと。


そこで著者は考える。

「みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれないと考えるなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる。それらはわれわれのアイデンティティを形づくるコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求だ。自分は重荷を背負った自己であり、みずから望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えないかぎり、われわれの道徳的・政治的経験のそうした側面を理解するのは難しい。」

そして、どうすれば道徳的個人主義とコミュニティの道徳的な重みを両立できるかを模索する。


で。よーーやく、物語る存在としての個人というのが出てくるんである。私が以前読んだ『集中講義 これが哲学』(西研)では、半ば当然のように冒頭から物語る存在としての個人という話が出てくるのとは対照的。


サンデル先生は、アラスデア・マッキンタイアという人の意見を紹介する。マッキンタイアは、

「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ」

「自己についての物語的見解との対照ははっきりしている。私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語のなかに埋め込まれているからだ。私は過去を持って生まれる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係をゆがめることだ」

と言っている。


マッキンタイアは自分の主張と現代の個人主義の考え方とは相容れないと認めているものの、日本ではこのような、物語る個人という理解のされ方は道徳的個人主義よりもまだ多くを占めているように思う。日本では、アジア諸国に対する「謝罪」が不要であるということを、「日本はアジアを侵略したのではなく、西欧による植民地主義から解放しようとしたのだ」という物語の読み替えから主張することはあっても、「侵略はしたが、あれは我々がやったことではないから謝罪の必要はない」という見地から言う人間は少ない。っていうか、いるのかな?そんな人。


じゃあ、ここでまた出てくるのは、何で?ってことでしょう。分からんね。「アメリカに比べて、長く、統一的な歴史があるから」という一言で片付けていいのかも分からんし。


ただ、何となくだけど、日本におけるこういう物語的な個人の認識というのは徐々に薄れてきている感じがする。やれ、孤独死だとか、無縁社会だとか、お一人さまの老後だとか、言われてますね。


個人主義かが進んできたのは、やっぱさ、楽だからだよ。「おれはあんたのことをあれこれ詮索しないから、あんたもおれのことを詮索しないで」ってのはね。


これはヤバいってんで、特に保守の方から物語の再構築というか、コミュニティの共同意識の復活が試みられている。NHKのニュースで取り上げられるような、コミュニティの再建の成功譚がパラパラとある一方(別に保守がやっていることだけじゃないけど)、全国民的にはそれほどの盛り上がりをみせてはいない。


今後、流れとしては、日本の社会はより個々人が遊離していくような方向に行くような感じだが、その潮流とは別に、「みんなでどんな社会(又はコミュニティ)にしたい・住みたいかを話し合うこと」は、導きだされるものが何であれ、必要なんじゃないのかねえ。政治家センセイのご託宣のみをうやうやしく頂戴しなけりゃいかん法はないわけで。


と、最後はサンデル先生と同じような結論に着地したところでおしまいです。最後までお付き合いいただいてありがとうございました。



主観的面白さ;★★★★/5


2011/6/14 (U)

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