サブカル

宮沢章夫さんの昔のブログを読んでいて気付かされた。長いんだけど引用する。


2009年3月13日の記事

「サブカルチャー」、ないしは「サブカル」についてまたあらためて考えていた。八〇年代の 「すかした文化」を乗り越え、九〇年代の「カルト・鬼畜・グロテスク」が時代を先行してゆく 背景に、八〇年代的な「消費されるだけのアート」という、それもまた「サブカルチャー」のひとつに過ぎなかったもの(一見、芸術の外観をしていた)の「虚妄」「ウソ」「インチキ」「ペテン」を暴こうという意志があったと思える。

同年3月15日の記事

九〇年代の半ばを考えるとき、「閉塞」を政治化ではなく、もっと異なる方法で突破しようとしたのが、このところ問題にしている文化的な潮流ではなかったか。ドラッグでもきめなきゃやってられないというか、精神世界で異なるステージに上がらなければやっていられないというか、突破は外部への働きではなくむしろ自閉、内閉するというか(つまり、オタク化ね)、そういったこと。しかし、「オウム」と「震災」のあとにやってきた、安全と保守主義への意識の高まりは「ノイズ排除」に向かったが、一方、それに反するかのように、「悪趣味」「カルト」「鬼畜」「ドラッグ」「グロテスク」といったものにある層が注目しはじめるのはやはり興味深い。単なる反動ではないはずだ。そんな単純な構図ではないと思う。現象を追うだけではなく、ここはやはり、現在を解く専門家による理論的な分析と、思想の力を借りるしかない。って、それ、俺の仕事か?


そうなんだよ。確かに私が享受していた所謂「サブカル」というもの(無論当時にそのものズバリ「サブカルだ」という認識はなかったけど)は、上に引いたように「悪趣味」の類のものだった。


私が高校生だった頃はまだインターネットもそんなに普及しておらず、紙媒体からの情報が多かった。例えば「BURST」という雑誌がそうだったし、確か不定期刊だった「危ない1号」シリーズとかがそうだった。今はもう両方ともないが。


「BURST」と「危ない1号」シリーズの大きな共通点は、ドラッグと死にまつわるものだった。


何なんでしょうかねえ。アレ。「Metal a Headbanger’s Journey」でロブ・ゾンビが同じようなことを言っていたが、こっちから好きになるように努めたってわけじゃないんだよ。気がつけばそれに興味を持っていたんだ。んー、いや、ちょっとは「他人と違うおれ」というような見栄があったか。


妙な具合にサブカルの「露悪」傾向と私の個人的な嗜好がシンクロしたんだなあ。


じゃあ、いまのサブカルの潮流って何なんでしょう?個人的には「カワイイ」じゃないのかと考えてます。日本には昔からキャラが数多いたんであるが、カワイイベクトルに向いているキャラがこれだけ多かった時代はないんじゃないか。なんだその奥歯にものが挟まったかのような物言いは。


さらに、「kawaii」の世界進出も進行中だ。ハロー・キティさんがセレブリティを虜にしているのは広く知られている話であるし、ゴスロリとかそういう奇天烈な服飾関係のジャンルも着々と輸出されとります。「kawaii」とはちと違うがフランスじゃ『神の雫』が人気だと言う。日本でドラマ化された『神の雫』、視聴率はぶっちぎりのひとケタ台だった。


ってまあこれだけサブカルサブカル言っててもそれが何かはよく分かってないのですけども。
 

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